現代思想が照らすウェルビーイング:最適化される生と未来の羅針盤
ウェルビーイングをめぐる現代の問い
近年、「ウェルビーイング(Well-being)」という言葉が様々な文脈で聞かれるようになりました。単に健康であることだけでなく、精神的、社会的、経済的、環境的など、多様な側面を含む「よりよく生きる」状態を指すこの概念は、個人だけでなく、企業や自治体、国家レベルでの目標としても掲げられています。なぜ今、ウェルビーイングがこれほどまでに重視されるのでしょうか。それは、現代社会が経験する変化や課題――テクノロジーの進化、グローバル化、環境問題、多様性の拡大、価値観の多様化などが、「幸福」や「豊かさ」といった従来の指標だけでは捉えきれない、より複雑で多層的な生の質への関心を高めているためと考えられます。
しかし、ウェルビーイングが広範な概念であるがゆえに、その具体的な意味や達成方法は曖昧になりがちです。何をもって「よりよく生きる」とするのか、その評価基準は誰が、どのように定めるのか。そして、テクノロジーの進展、特にAIやデータ分析が個人の状態を「最適化」しようとする現代において、ウェルビーイングはどのように捉え直されるべきなのでしょうか。ここでは、現代思想の視点からこのウェルビーイングという概念を考察し、現代社会の傾向や未来の可能性について考えてみたいと思います。
「生」の管理と最適化:フーコーの視点
現代思想家ミシェル・フーコーは、近代社会において権力が個々の生命や人口全体を管理・規律しようとする「生権力(biopower)」の働きを指摘しました。生権力は、健康、衛生、出生率、寿命といった生物学的な側面を統制し、生命そのものを効率的に管理・増殖させることを目的とします。このような生権力の視点から見ると、現代社会でウェルビーイングが強調される背景には、個人の健康状態や精神状態、さらには幸福度までもデータ化し、管理・改善しようとする動きがあるのではないか、と問いを立てることができます。
例えば、健康管理アプリ、フィットネストラッカー、メンタルヘルスケアのツール、さらには従業員のエンゲージメントを測るシステムなどは、個人のウェルビーイングを「測定可能」なデータとして捉え、それを「最適化」しようと試みます。これは一見、個人の利益に資するように見えますが、同時に、生権力的な管理の新しい形として機能する可能性も孕んでいます。私たちは、自らのウェルビーイングを外部の基準やアルゴリズムによって「最適化」される対象として差し出してしまうのではないか、あるいは、「最適化された生」を送れない人々が排除されるような規範が生まれるのではないか、といった問いが生まれます。
フーコーが生権力によって管理される「身体」や「生」の抵抗の可能性を示唆したように、ウェルビーイングをめぐる現代の議論もまた、単なる管理・最適化の枠組みを超えた、多様な「生」のあり方を模索する視点を含んでいます。
最適化を超える「生」の生成:ドゥルーズの視点
ジル・ドゥルーズは、固定化された構造や規律から逸脱し、常に変化し生成し続ける「生」の哲学を展開しました。彼の思想からウェルビーイングを考えると、それは決して静的な「良い状態」や、外部から与えられた基準に従って「最適化」されるゴールではなく、むしろ予測不能で多様な可能性を内包する「生成変化」のプロセスとして捉え直すことができます。
テクノロジーによる「最適化」は、効率や生産性を重視し、あるべき理想像に向かって個人の状態を均質化しようとする傾向があります。しかし、ドゥルーズ的な視点では、真の「生」の豊かさは、むしろ非効率なもの、逸脱するもの、予測できないものの中にこそ宿ると考えられます。ウェルビーイングを、単なる個人的な快適さや社会的な適合性ではなく、他者との予期せぬ出会い、新しい経験への挑戦、既存の価値観からの離脱といった、「生」の多様な生成のプロセスとして捉えるとき、最適化とは異なる価値が見えてきます。
AIが個人の感情や行動パターンを分析し、より「幸福」になるための行動を推奨するような未来が考えられます。これは効率的なウェルビーイングの追求かもしれませんが、ドゥルーズ的な視点からは、そこにこそ「生」の多様性や差異が失われる危険性が潜んでいると指摘できるでしょう。自分にとっての「よりよく生きる」とは何かを、既存の枠組みやデータによる推奨から離れて自ら問い直し、多様な可能性を実験的に生成していく姿勢が、未来のウェルビーイングにとって重要になるのかもしれません。
未来の羅針盤としてのウェルビーイング
現代思想の視点からウェルビーイングを考察することは、この概念が単なる個人的な幸福追求の流行語ではなく、現代社会における「生」のあり方、権力との関係、そして未来の価値観を問う重要な手がかりであることを示しています。テクノロジーによる「最適化」が進む中で、ウェルビーイングは管理・統制の道具となる可能性もあれば、個々の多様な「生」のあり方を肯定する出発点となる可能性もあります。
私たちは、データやアルゴリズムによって提示される「最適化されたウェルビーイング」のモデルを安易に受け入れるのではなく、現代思想が示すように、それを生権力的な管理の一環ではないか、あるいは「生」の多様な生成を阻害するものではないか、と批判的に問い直す必要があります。自分自身にとっての「よりよく生きる」とは何かを深く考察し、他者や社会、環境との関わりの中で、固定されない、常に変化し続ける「生」の質をいかに追求していくか。この問いこそが、不確実な未来を生きる上での重要な羅針盤となるのではないでしょうか。