流動化する都市空間:ドゥルーズとガタリの哲学が示す羅針盤
変容する都市空間への視座
現代社会は、デジタルテクノロジーの進化、リモートワークの普及、そして予期せぬパンデミックといった要因により、都市空間のあり方が大きく変化しています。かつては物理的な集積地であり、固定された構造を持つものと考えられてきた都市は、今や情報や活動が流動するネットワークの一部として捉え直されつつあります。オフィス街、商業施設、居住区といった伝統的な区画の境界線は曖昧になり、人々は物理的な場所を超えて多様な空間を行き来するようになりました。
このような都市空間の変容を理解し、その未来を考えるためには、従来の都市論の枠を超えた新たな視座が必要です。ここでは、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと精神分析医フェリックス・ガタリの哲学が、この流動化する都市空間に対してどのような示唆を与えてくれるのかを考察します。彼らの提唱するユニークな空間論やノマドロジー(遊牧論)は、私たちの目の前で起きている変化を捉えるための有力な羅針盤となるかもしれません。
ドゥルーズとガタリの空間論:ストリエ空間とスムース空間
ドゥルーズとガタリは、『千のプラトー』などの著作で、空間を二つの異なるタイプに分類しました。一つは「ストリエ(縞模様の)空間」あるいは「層化空間」と呼ばれるもので、これは明確な区画、境界、ヒエラルキーによって秩序づけられた空間です。国家の領土、建築物、そして近代的な都市計画によって作られた都市空間は、典型的なストリエ空間と言えます。ここでは、場所の機能や移動の経路が定められており、定められた「線」に沿った運動が支配的です。近代的なオフィスビルや整然と区画された住宅地などは、ストリエ空間のイメージに近いでしょう。
対照的に、「スムース(滑らかな)空間」あるいは「脱層化空間」は、明確な境界や中心がなく、流動的で非定型的な空間です。砂漠、大草原、あるいは大海原といった自然環境がその比喩として挙げられます。スムース空間では、定められた経路ではなく、場所と場所の間を横断するような運動(ドゥルーズとガタリはこれを「ノマド的運動」と呼びます)が可能です。ここでは、固定された「点」ではなく、生成や変異のプロセスが重視されます。
都市のスムース化:デジタルテクノロジーの影響
現代の都市空間では、この「スムース空間」の性質が強まりつつあります。デジタルテクノロジー、特にインターネットとモバイルデバイスの普及は、物理的な場所の固定性を弱めました。
例えば、リモートワークの普及により、人々は特定のオフィスビルに通勤するというストリエ空間的な行動から解放され、自宅、カフェ、コワーキングスペース、さらには旅先の滞在先など、多様な場所で働くことができるようになりました。これは、労働という活動が、固定された「点」(オフィス)に拘束されるのではなく、情報ネットワークというスムースな空間上を流動するようになった一つの例です。
また、ナビゲーションアプリや位置情報サービスは、都市の物理的な構造(ストリエ空間)を情報というスムースな層で覆い隠します。知らない場所でも容易に目的地にたどり着けるようになった一方で、私たちは都市空間を肌感覚で把握し、その歴史や文脈を感じ取る機会を失う傾向もあります。都市は、具体的な場所の集積というよりは、アプリ上に表示される情報や目的地への経路として認識されるようになるのです。
さらに、オンラインプラットフォームやソーシャルメディアは、都市の中に物理的な距離を超えた新しい「場所」を生成します。趣味や関心を共有するコミュニティがオンライン上に生まれ、物理的な都市空間とは異なる繋がりを生み出します。これは、都市という物理的なストリエ空間の内部に、情報ネットワークというスムース空間が侵入し、新たな「場所」のあり方を提示している状況と言えます。
ノマドロジーと未来の都市生活
ドゥルーズとガタリの「ノマドロジー」は、このようなスムース空間における移動や生を論じます。ノマド(遊牧民)は、固定された拠点を持たず、絶えず移動しながら生を営みます。これは単なる物理的な移動だけでなく、思考やアイデンティティの流動性も示唆します。
現代の都市生活者の一部は、ある意味で「ノマド的」になりつつあります。リモートワーカーは物理的な都市空間を移動しながら働き、デジタルノマドは国境すら越えて場所を変えながら生活します。また、オンライン空間での活動は、物理的な場所やコミュニティへの帰属意識を超え、多様なネットワークを一時的に横断することを可能にします。
このようなノマド的な生は、都市のあり方そのものに問いを投げかけます。都市はもはや、永住し、固定的なコミュニティを形成するだけの場所ではありません。一時的に滞在し、必要な機能を利用し、別の場所へと移動していく、流動的な活動の拠点としての側面が強まります。
考察のまとめ
ドゥルーズとガタリの空間論やノマドロジーは、現代の都市空間を「固定されたストリエ空間」としてのみ捉えるのではなく、「流動的なスムース空間」としての側面が強まっている状況として理解するための枠組みを提供してくれます。テクノロジーの進化は、都市の物理的な構造を情報ネットワークの層で覆い、物理的な場所の固定性を薄めることで、都市をよりスムースな空間へと変容させています。そして、このような空間では、場所を横断し、ネットワーク上を流動する「ノマド的」な生がより一般的になる可能性があります。
未来の都市を考える上で、私たちは単に物理的なインフラ整備だけでなく、情報ネットワークとの関わり、そして多様な人々が物理的・情報的な空間を自由に移動し、関わり合えるような「スムースさ」をいかにデザインしていくかという問いに向き合う必要があります。ドゥルーズとガタリの哲学は、伝統的な都市観を揺るがし、都市の未来について創造的な思考を促す羅針盤となり得ると言えるでしょう。