思想と未来の羅針盤

常に「生産的」であることの圧力:現代思想が読み解く『疲労社会』の羅針盤

Tags: 現代思想, 社会問題, 働き方, メンタルヘルス, 疲労社会

現代社会を覆う「疲労」の感覚

現代社会を生きる私たちは、どこか常に疲れているように感じることがあります。単に肉体的な疲労だけでなく、精神的な疲労、何かから追われているような感覚、あるいは自分自身を絶えず駆り立てているような感覚です。かつては、特定の場所や時間、人物からの「強制」によって働くことが多かったとすれば、今は自分自身が「もっとできる」「もっと生産的でなければ」と内側から追い立てられているかのようです。

この現代的な疲労の感覚は、個人の性質や怠惰さの問題として片付けられるべきものでしょうか。それとも、社会構造や支配的な価値観と深く結びついているのでしょうか。現代思想は、この現代的な疲労をどのように捉え直し、未来への羅針盤を示すのでしょうか。

成果社会における「ポジティブな強制」

韓国出身の哲学者ハン・ビョンチョルは、その著書『疲労社会』において、現代社会の疲労を独特の視点から論じています。彼は、近代の「規律社会」から現代の「成果社会」への移行を指摘します。

規律社会とは、工場や学校、病院といった施設が人々を囲い込み、規律や命令によって行動を管理する社会です。ここでは、人は「~してはいけない」という禁止や強制に従うことで「従順な主体」となります。しかし、成果社会では、外からの禁止や命令に代わって、「~できる」「~すべき」という「ポジティブな強制」が前面に出てきます。

この社会では、可能性を最大限に引き出し、常に成果を出すことが求められます。禁止されるのではなく、「やろうと思えば何でもできる」というメッセージが人々を駆り立てるのです。これにより、人は自らを積極的に働きかけ、成果を追求する「成果主体」となります。

自分自身を搾取する主体

成果社会におけるポジティブな強制の究極の形は、「自己搾取」であるとハン・ビョンチョルは論じます。規律社会では、搾取する側(資本家、権力者)とされる側(労働者、被支配者)が明確に分かれていました。しかし成果社会では、成果主体は自分自身に対して成果を要求し、自分自身を駆り立てます。つまり、人は搾取する側であると同時に、搾取される側となるのです。

「もっと頑張れば、もっと成功できる」「このスキルを身につければ、もっと稼げる」といった自己啓発のメッセージや、SNSで流れてくる他者の「充実した生活」は、このポジティブな強制を内面化させ、自分をさらに追い込む要因となりえます。休息や余暇でさえ、「充電して明日からの生産性を高めるため」といった目的のもとに正当化されがちです。

このような自己搾取は、他者との対立ではなく、自分自身との内的な葛藤を生み出します。そして、この絶え間ない自己への要求と、それに応えきれないことによる無力感や焦燥感が、現代的な精神疾患、例えば燃え尽き症候群やうつ病の一因となっている可能性があるのです。

疲労社会から抜け出す羅針盤はどこに?

では、この疲労社会から抜け出し、異なる未来を構想するための羅針盤はどこにあるのでしょうか。ハン・ビョンチョルは、成果社会が生み出す過剰な活動性や透明性(すべてを成果や効率性の観点から評価しようとする傾向)に対抗するものとして、「深く見つめることのできる疲労」や「内省」の価値を挙げます。

成果を追い求める活動性から一時的に離れ、立ち止まり、自分自身の内面や、効率性だけでは測れない世界の側面に向き合うこと。これは、生産性向上のための休息ではなく、成果主義のシステムそのものから距離を取るための行為と言えます。

また、この問題は個人の内面的な努力だけで解決できるものではありません。社会全体として、成果や効率性だけを至上の価値とするのではなく、ケア、共生、遊び、あるいは無為といった、異なる価値をどのように認め、包摂していくのかという問いと向き合う必要があります。

未来への考察

現代社会の「疲労」は、単なる個人的な体調不良ではなく、私たちが生きる社会のあり方、そしてそこで追求される価値観の歪みを映し出す鏡なのかもしれません。現代思想がこの疲労を読み解くことは、私たちがどのような社会を目指し、どのような価値を大切にすべきかという、未来への重要な問いを提起します。

成果を追求する活発さとは異なる、静かで深く考える時間、他者や自然との繋がり、そして効率性や生産性では測れない人間の営みに価値を見出す視点。これらが、疲労社会を乗り越え、より人間的で持続可能な未来を築くための羅針盤となる可能性を秘めていると言えるでしょう。